昨日は,サンノゼ(San Jose)のジャパン・タウンを訪問した。

 サンノゼは,サンフランシスコ湾の南(South Bay)に位置し,シリコンバレーの中心都市でもあるが,今住んでいるところからはやや遠く,2時間ほど地下鉄と高速バスを乗り継いで到着した(バスに乗るはこの時が初めて)。

 前回の投稿で,アメリカのジャパン・タウンについて若干紹介したが,その後23本の論文を読んで,正確なところも記述しながら,ここに防備録としてサンノゼのジャパン・タウンについて投稿してみる。

 アメリカ合衆国への日本人の移民は,1868年明治新政府の国策から始まり,その後日米紳士協定で家族の呼び寄せ以外不可能となり,1924年移民法によって完全にシャット・アウトされた経緯を辿るが,それでも第二次世界大戦開始までにその数は約37万人に達した。その大半(98%)はハワイと西部諸州に集中した。

 西部諸州では, 1896年日本郵船よる最初の日米定期航路が横浜とサンフランシスコ間に設けられたことから,アメリカに渡る移民について,カリフォルニア州に集中したことは言うまでもない。合衆国センサスによれば,1940年にハワイ州を除く日系アメリカ人の総数は約126,000人,うちカリフォルニア州は約94,000人で,全体の約74%を占めていた。。したがって,日本人移民が集住する「ジャパン・タウン(日本町・日本人街)」の多くは,カリフォルニア州に形成された。

  1940年当時,カリフォルニア州には49カ所にジャパン・タウンが存在していたと言われる。このうち,27カ所が北カリフォルニア,22カ所が南カリフォルニアにあった。北カリフォルニアのジャパン・タウンは,サンフランシスコ・ベイエリア(San Francisco Bay Area)に10カ所,サクラメント・バレー(Sacrament Valley)に9カ所に集中していた。

 しかし,これらのジャパン・タウンは,第二次世界大戦時,日系人の強制収容(War Relocation)によって崩壊した。現存するジャパン・タウンはサンフランシスコ,ロサンゼルスとサンノゼのわずか3カ所に過ぎない。このうち,センノゼのジャパン・タウンは,強制収容の期間に,白人弁護士(Benjamin Peckham)が空き家となった日本人の建物を管理し,日系仏教寺院に収容していた日本人の家財を保護していたことから,大戦後,日系移民が収容所から戻ってきた際,町の再建が比較的容易に可能となったという点で,サンフランシスコやロスのジャパン・タウンとは異なり,特異な歴史を辿っている。それだけに,現在においても戦前からの建物等も少なからず残されている。

 現在のサンノゼのジャパン・タウンの状況は,調査によれば,以下のようである。ジャパン・タウンの建物を所有者別にみると,日系人が46棟,中国人4棟,その他4棟,合わせて54棟となっている。テナントでみると,日系人は55カ所,中国人は7カ所,その他25カ所で計87カ所,このうち日系アメリカ人の商業施設が35カ所と一番多く,日本雑貨店,日本食材スーパー,豆腐店など日本特有の事業内容が多いという。

 サンノゼのジャパン・タウンのなかには,サンノゼ日系アメリカ人博物館(Japanese American Museum of San Jose)がある。ここには様々な歴史的資料が展示され一般公開されている。今回の1回の訪問で全体をくまなく見ることはもちろんできなかったが,サンフランシスコの「日本町」とは異なり,何回訪問しても飽きないだろうと思った。博物館の学芸員さんも非常に親切で,私の父親は「帰米だった」と語ったご婦人から,「日本語はできない」と断りつつ,ゆっくりとした英語で懇切丁寧に説明してくれた(『帰米』という言葉の意味の説明はここでは割愛する)。

 今回,初めて訪問してみて,サンノゼのジャパン・タウンはとても勉強になった。私の日系移民史の研究は,今もそうであるが,「一世」の労働者を対象とするのであり,主として,鉄道建設(保線)に従事する日本人の労働移民に関心がある。サンノゼの日本人街は,サザン・パシフィック鉄道の同地域への開通とともに発展した経緯を持っている。ただ,このサンノゼに定住した移民たちは,農業に従事するものが大半であった。これまで 農業部門に従事した移民の研究は深めておらず,その点でサンノゼの日本町と資料館の存在は勉強の領域を広げてくれるよいきっかけを与えてくれそうな気がする。


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(日本食材スーパー・チェーン Nijima)

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(Jackson St)

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Japanese American Museum of San Jose

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