私が,日系移民史研究のなかで,特に気に入っている叙述家の一人に,「鷲頭文三(わしづ・ぶんぞう)」という人物がいる。彼は,1865(慶応元)年の新潟県生まれで,自由民権運動に関わった後,1894(明治27)年アメリカに移民した。当時サンフランシスコで在米日本人に向けて発行されていた邦字新聞(『日米』という名の新聞)の新聞記者でもあった。

 彼の残した文書は数多いが,初期日本人移民一世の歴史(彼にとっては同時代史でもあるが)を非常に丹念に調べ上げて記録として残した人物であったと私は評価している。

 日本人のアメリカ移民史は,実を言うと,1910年以前の移民に関する基本的な一次史料は,現在,アメリカにはほとんど残されていない。その理由は2つある。1つは,1906年のサンフランシスコ大地震により,史料が火災等で失われてしまったこと,もう1つは第2次世界大戦中の11万人に及ぶ強制収容の影響である。強制収容は,家財も含めて一切合切,売るか捨てるかして,何も持たずに強制移住させられた。この時,歴史を物語る私物や史料等はみんな紛失してしまった。したがって,現在,一世の研究は基本的にオーラルヒストリー以外に成り立たない。

 こうした状況の中で,上記新聞記者「鷲頭文三」(記事を書く時のペンネームは「鷲頭尺魔(しゃくま)」)が書いた新聞記事は,記録として残された一次資料の価値が高い。その中で,彼が当時の在米日本人が在米中国人に対してどのような見方をしていたかを示す興味深い記事があるので,紹介する。

以下,原文のまま。【鷲頭尺魔『歴史湮滅の嘆 第38回』(「日米新聞」,May 14,1922)】より
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 今頃の日本人は生意氣に支那人を目してチャン公といふ輕蔑詞を用いるが、これは惡るいことだ。チャン公とは、熊公、八公の如き稱號と同じい意味になっている。人様を輕蔑した稱號で排日米國人が日本人をヂャップと云に同じき失敬の言葉である。
 在米日本人が支那人をチャン公と唱へだしたのは、故黒澤格三郎(醫師)だと思はれる。格三郎は地口駄洒落の妙を得た醫者で桑港日本人間最初の醫師として有名な男であった。彼れが支那人をチャン公と唱へたのは、明治二十七年日清戦争當時からで日清戦争は日本を世界に廣告するには頗る有力な戰であったが、此時から日本人は舊恩を忘れた自大野郎となったのであった。
 日清戦争前までは支那人を目して先生と唱へていた。先生とは師匠先輩を意味したる一種の敬語である。

 ………(中略)………

 支那人は日本國の師匠のみでなく米國移民の師匠であった。加州を始め山中部北部諸州を旅行する人は各都市に支那人街を見るであらう。其支那街は當時の支那移民の發展を記念すべき好個の歴史資料である。そして此支那人街の一隅に日本人が居候的に巣を作った事蹟を見るであらう。
 「支那町に居候するジャップ哉」此の諷句は私が二十五年前サンノゼで詠んだのであるが、日本人は全く支那人の居候から發展したものである。考へて見れと支那人先生をチャン公など呼ぶのは忘恩の野郎共の申分だ。
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【上記の記事のなかで,「山中部北部諸州」とは,モンタナ,アイダホ,ワイオミング,ネバダ,ユタ,アリゾナ,ニューメキシコの一部(以上が山中部諸州),オレゴン,ワシントン州(以上が北部諸州)を指す。】

当時,こうした見方で,在米日本人の中国人への差別意識を批判し文字として残したのは,彼だけではないかと思う。また,こうした見方が,前回投稿したように,アメリカ移民史研究において重要な観点であり,かつ研究の方法論を問い直す上で重要な視点であろうと思う。