2016年09月

今日は 英語を習っている学校(Berkeley Adult School)のクラスで,授業を兼ねてピクニックに行きました。9時に学校集合,貸し切りバス1台でBerkeley Hills にあるTilden Regional Parkというところに行ってきました。

Berkeley Hillsについては,下を参照。
https://en.wikipedia.org/wiki/Berkeley_Hills

ここに,クラスメートの写真を掲載します。

ボクのクラスは,全員で25~30人ぐらいのです(正確な人数はわかりません)。
先生のfirst nameは,Peggyと言います(写真、最後段の右端)。DSC_0871

1942年のミシガン州生まれだそうで,年齢は70を超えられていますが,丁寧に教えてくれています(と言っても喋っている英語の内容の7割方はまだわかりませんが…)。
生徒になったのは,大学院以来30年振りで,とても新鮮です。

クラスメートのうち,日本人はボクのほかに2名(女性)おられます。お二人ともアメリカ生活に慣れている方ですので,とても親切にいろいろ教えてくれます。
親切にしてくれるのは,日本人ばかりではありません。他の方もみんなそうです。

クラスメートのお一人が,今日のピクニックの全貌を写真で撮りgoogleフォトに載せて,みんなに配信してくれましたので,その写真も下のサイトにあります。

https://goo.gl/photos/pxnPoeUKo8SVfsmC7

昼食の食べ物,飲物,デザートは,みんなクラスメートのために,それぞれ作って(購入して),持ってくることになっていました。写真をみてもわかるように,テーブルは一杯になりました。国ごとの料理が多彩で,また美味しかったです。

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今日,バークレーにあるofficeにSocial Security Card を申請した。
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 カリフォルニア州には,各都市あるいは地方ごとに「Adult School(アダルト・スクール)」という教育機関がある。非常にアメリカの懐の深さを知る機関でもあるので,紹介する。実は,私は明日からバークレー市に設置されているアダルト・スクール(Berkeley Adult School)に入学する。このスクールの生徒になるのである。

 まず,この教育機関は,誰に対して何を教育するのかと言えば,公式HPで以下のように説明されている。

【教育の対象】

 基本的に,社会経済的に恵まれない成人及びマイノリティ,すなわち高校中退者あるいは8年生になれなかった者,移民,失業者,発達障害者である。また,州の刑務所内で教育プログラムを実施している機関もある。

Primarily socioeconomically disadvantaged adults and minorities: those who failed to complete high school or even 8th grade, immigrants, the unemployed, and developmentally disabled. Some adult schools even conduct programs in our state’s prisons and jails.

 【教育プログラム】

1Adult Basic Education (ABE)-成人向け基礎教育

2High School Diploma-高校卒業資格

3English as a Second Language (ESL)-第二言語としての英語教育

4. Career Training-職業訓練

5. Parent Education-ペアレント(親の)教育

6. programs for Developmentally Disabled adults-発達障害のためのプログラム

 こうした性格をもつAdult Schoolの数は,カリフォルニア州全体で300を超える。最近,2009年の法律によって閉鎖されたところもあるようだが,依然としてその規模は大きい。また,設置形態は総て公立である。因みに,以下に各地に設置されているアダルト・スクールを総ての網羅したページがあるので,参照のこと。

http://californiaadultschools.org/cas/school-info

 以上を要約するに,アダルト・スクールとは,様々ないわば社会的弱者とも言える人々に対し,社会生活,職業生活を可能にするため設置された公的な教育機関ということなる。

 私は,なぜこのような性格の教育機関に入学するのかといえば,上記の教育プログラムの3番目にあたる「English as a Second Language (ESL)-第二言語としての英語教育」が設置されているからである。

 「第二言語としての英語教育」(ESL)機関は,よく知られるように,短期あるいは長期などの語学留学などで利用される。日本での語学留学のパンフレットを見れば,よく記載されている。これらのESLはアメリカの大学総てで用意されているし,また学校以外の民間のものもたくさん(膨大)にある。そのための費用は,日本円に直して,1カ月(4週間)約20万円弱,3カ月では50万円を超すのが平均であり,一般的である。このぐらいのお金を出さないと,アメリカで英会話学校に入れないのである。

 しかし, アダルト・スクールはそうでない。公立ということもあるが,月謝(費用)がゼロ円なのである(スクールによっては,30ドル程度を徴収ところもあるようだ)。そして,一番すごいと思ったのは,「第二言語として英語」を使う者,すなわち,非英語圏から来てアメリカに住んでいる者(アメリカ居住者)に対しては,まったく平等・分け隔てせずに誰でも入学を認めている点である。実際,私が入学願書を出しに行った時の経験を書くとこうであった。

 まず, 1.入学願書をHPからダウンロードして内容を記載する(記載内容は名前,住所,電話番号,Emailアドレス,雇用者か非雇用者か,民族,人種,母国言語の種類)。

実際の申請用紙は,ここ。

http://bas.berkeleyschools.net/wp-content/uploads/2016/08/Student-Reg-Form-2016-Final.pdf

2.その申請用紙をOfficeの窓口に持って行って提出する。受け取った事務の方は,そのデータを入力するだけ。その後,クラス分けのための英語のテストをやるので,○○教室に行けと指示される。

3 英語のテストを実施(文法問題,リスニング,長文などの読解テスト)される。それだけである。

 驚かされるのは身分証明になるようなものは(例えばパスポート類も)一切提出を求められなかったことである。要するに,どこの馬の骨ともわからない外国人に対して,英語を勉強したいというただの一点の望みさえあれば,料金は無料で教育(13時間,土日を除く毎日,期間は無限)を施すというのである。この寛容さ,懐の深さには,アメリカは偉大だと感じた。

 

写真は,入学するBerkeley Adult Schoolの校舎看板と無料だという証拠書類(invoice)

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この町に来て,まず一番に興味をひいたのは,景色というよりもその町の名前であった。

Elといい,Cerritoといい,これらは英語の語形をしていない。もちろん,こちらではこうした地名は数多い。San Jose(サンノゼ)もそうである。Joseをどうして「ノゼ」と呼ぶのだろう。地下鉄(サンフランシスコの地下鉄をbartと呼ぶ)の駅名を見ても、明らかに英語名でなさそうなものが多く,何と発音するの戸惑うものも少なくない。また,住んでいるアパートから最寄りの地下鉄の駅までは歩いて約10分。この駅名は「El Cerrito del Norte」と付けられている。delの意味は,英語のof the, Norteは英語のnorth,したがって,El Cerrito del Norteは「北エル・サリート」という意味になる。

因みに,大学のあるバークレー(Berkeley)市の場合,最も北に位置する地下鉄の駅名は,North Berkeleyという。英語そのままである。

実際,El Cerritoという地名の由来を調べてみると,この語はスペイン語とのこと。スペイン語で「Little Hill」の意味らしい。Hill(丘)というのは,市の東側に位置する丘を意味するのであろうと推測する。ただし,「小さな丘」という風貌ではなく,かなり高い。また,山脈とは表現できないが,北から南へとずっと連なっている。単なるこんもりとした丘というイメージではない。

ところで,どうしてスペイン語がここの地名となったのか。最初に興味をひいたのはこの点であった。つまり,Ei Cerritoの成り立ち(歴史)についてである。

全くのにわか勉強であるが,こちらのHPを使って歴史を調べて解ったことは,以下の事柄であった。

①サンフランシスコ大地震以前(1900年頃),この地域にはほとんど人が住んでいなかった。丘(hill)の麓に沿って,この牧畜業が営まれていた。したがって,人間の数より牛の数の方が多かったとの記述あり。

②1906年のサンフランシスコ大地震(マグニチュード7.9と言われる)と大火は,エルセリートの発展の始まりであった。この地震と大火によってサンフランシスコからの避難民が発生し,それらの人々がこの地域に移動してきたからである。

③大地震前,この地域は「Rust」と呼ばれていた。その由来は,この地域にWilhelm F. Rustなる人物が住んでいたからである。彼はこの地域の初代郵便局長を務めた人物であった(彼は不動産業や鍛冶屋を営み,のち金物店の経営者となった)。

④しかし,1917年エルセリートが市となった時,サンフランシスコからの避難民からなる1500人が市民として加えられた。これらの人々はこの町の名を「Rust」と言うのを好まず,スペイン語で「小さな丘」(Little Hill)を意味する 「El Cerrito」に変更したというのである。

カリフォルニアは,ロサンゼルス(Los Angeles)を含めて,スペイン語由来の地名が多い。元々スペイン人によって開拓され,メキシコ領土であったという経緯があるから当然とも言えるが,サンフランシスコ大地震によって非難してきた人々がスペイン語名を好んだという点に驚いた。

現在のメキシコ人の多さの問題は別にして,カリフォルニアの風土におけるスペイン語文化というは歴史的にどのような展開していたのだろうか。これもこの土地に住んでみてあらためて関心が湧いた事柄の一つである。
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 昨日は,サンノゼ(San Jose)のジャパン・タウンを訪問した。

 サンノゼは,サンフランシスコ湾の南(South Bay)に位置し,シリコンバレーの中心都市でもあるが,今住んでいるところからはやや遠く,2時間ほど地下鉄と高速バスを乗り継いで到着した(バスに乗るはこの時が初めて)。

 前回の投稿で,アメリカのジャパン・タウンについて若干紹介したが,その後23本の論文を読んで,正確なところも記述しながら,ここに防備録としてサンノゼのジャパン・タウンについて投稿してみる。

 アメリカ合衆国への日本人の移民は,1868年明治新政府の国策から始まり,その後日米紳士協定で家族の呼び寄せ以外不可能となり,1924年移民法によって完全にシャット・アウトされた経緯を辿るが,それでも第二次世界大戦開始までにその数は約37万人に達した。その大半(98%)はハワイと西部諸州に集中した。

 西部諸州では, 1896年日本郵船よる最初の日米定期航路が横浜とサンフランシスコ間に設けられたことから,アメリカに渡る移民について,カリフォルニア州に集中したことは言うまでもない。合衆国センサスによれば,1940年にハワイ州を除く日系アメリカ人の総数は約126,000人,うちカリフォルニア州は約94,000人で,全体の約74%を占めていた。。したがって,日本人移民が集住する「ジャパン・タウン(日本町・日本人街)」の多くは,カリフォルニア州に形成された。

  1940年当時,カリフォルニア州には49カ所にジャパン・タウンが存在していたと言われる。このうち,27カ所が北カリフォルニア,22カ所が南カリフォルニアにあった。北カリフォルニアのジャパン・タウンは,サンフランシスコ・ベイエリア(San Francisco Bay Area)に10カ所,サクラメント・バレー(Sacrament Valley)に9カ所に集中していた。

 しかし,これらのジャパン・タウンは,第二次世界大戦時,日系人の強制収容(War Relocation)によって崩壊した。現存するジャパン・タウンはサンフランシスコ,ロサンゼルスとサンノゼのわずか3カ所に過ぎない。このうち,センノゼのジャパン・タウンは,強制収容の期間に,白人弁護士(Benjamin Peckham)が空き家となった日本人の建物を管理し,日系仏教寺院に収容していた日本人の家財を保護していたことから,大戦後,日系移民が収容所から戻ってきた際,町の再建が比較的容易に可能となったという点で,サンフランシスコやロスのジャパン・タウンとは異なり,特異な歴史を辿っている。それだけに,現在においても戦前からの建物等も少なからず残されている。

 現在のサンノゼのジャパン・タウンの状況は,調査によれば,以下のようである。ジャパン・タウンの建物を所有者別にみると,日系人が46棟,中国人4棟,その他4棟,合わせて54棟となっている。テナントでみると,日系人は55カ所,中国人は7カ所,その他25カ所で計87カ所,このうち日系アメリカ人の商業施設が35カ所と一番多く,日本雑貨店,日本食材スーパー,豆腐店など日本特有の事業内容が多いという。

 サンノゼのジャパン・タウンのなかには,サンノゼ日系アメリカ人博物館(Japanese American Museum of San Jose)がある。ここには様々な歴史的資料が展示され一般公開されている。今回の1回の訪問で全体をくまなく見ることはもちろんできなかったが,サンフランシスコの「日本町」とは異なり,何回訪問しても飽きないだろうと思った。博物館の学芸員さんも非常に親切で,私の父親は「帰米だった」と語ったご婦人から,「日本語はできない」と断りつつ,ゆっくりとした英語で懇切丁寧に説明してくれた(『帰米』という言葉の意味の説明はここでは割愛する)。

 今回,初めて訪問してみて,サンノゼのジャパン・タウンはとても勉強になった。私の日系移民史の研究は,今もそうであるが,「一世」の労働者を対象とするのであり,主として,鉄道建設(保線)に従事する日本人の労働移民に関心がある。サンノゼの日本人街は,サザン・パシフィック鉄道の同地域への開通とともに発展した経緯を持っている。ただ,このサンノゼに定住した移民たちは,農業に従事するものが大半であった。これまで 農業部門に従事した移民の研究は深めておらず,その点でサンノゼの日本町と資料館の存在は勉強の領域を広げてくれるよいきっかけを与えてくれそうな気がする。


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(日本食材スーパー・チェーン Nijima)

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(Jackson St)

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Japanese American Museum of San Jose

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